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社長コラム

『母を想う日』

2017年3月 1日掲載

 一月最後の日曜日、晴れ渡る空のもと、七回忌の法要が行われた。元気でいれば彼女は81歳になっていた。......昭和10年5月25日、父・平吉と母・カツの間に、末から二番目の六女として生まれたのが、私の母親で、『シゲ子』と名付けられた。山村の百姓家で育った子供時代は、『白いご飯なんか、滅多に食べられなかったよ。』という家庭事情だったため、高校への進学は叶わなかった。しかし、勉強はよく出来たようで、『あたしは、いつもクラスで一番だったよ。』と自慢げに話していたことを思い出す。中学を卒業すると、地元の農協に就職し、家計を助けることになった。『あの頃は、父ちゃんと母ちゃんに楽をさせるのが嬉しくってねぇ。』
 そんな生活が続いた彼女にも、やがて婚期が訪れる。相手は、浅草で修行を積んだ、お菓子職人の宗三郎30歳。シゲ子27歳の春だった。
 『色白でスマート、それと長く東京に居たからだろうか、言葉がきれいでねぇ、あたしの村では見つからない男だったよ。』その一目惚れした夫を必ず男にするという決意のもと、彼女は懸命に働いた。『商売の帳面を付けるのに、農協時代の事務も役に立ったねぇ。』これも、彼女の功績だったようだ。その甲斐あって、二人の商売は繁盛したが、結婚から16年後の冬、宗三郎は46歳で急逝してしまう。
 葬式が終わった夜。父の遺骨が置かれた部屋で布団を並べ、43歳の母親は、15歳と12歳の息子二人に言った。『お父さんはもう、いないんだよ。』これが覚悟の言葉だったのか、翌日から再び彼女の奮闘が始まり、私達兄弟は、無事に成人することが出来た。私が結婚した後は、人懐こく嫁に甘え、あっという間にのん気な姑に変身した上、甘えついでだったのか、その最期までをも看取ってもらった。平坦ではなかったと思うが、その苦労を感じさせない、明るく晴れやかとも言える、75年の生涯だった。
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 ......今では、わが家の実力者と呼ばれる嫁が、墓石に手を合わせる。『あぁ公ちゃん、いい天気でよかったねぇ、あたしゃうれしいよ。』あの、明るい声が聞こえてきそうな、真冬とは思えぬ、暖かで、彼女にピッタリな天気の一日だった。

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