「こんにちは、今月もお世話になります。」
入口のドアを開けて、私はいつものように挨拶をする。
『はい、よろしくお願いします。』と答えたA先生の声は、やや鼻にかかっていた。
『何だか鼻風邪を引いちゃったみたいで、熱とかは無いんですけどね。』
毎月20日を過ぎると、会社の月次決算のため、私はA会計事務所に出向く事になっている。
今年の3月は第4金曜日が、その日になっていた。
私は、その1週間ほど前に花粉アレルギーの症状が酷くなり、行きつけのクリニックで特効薬の注射を打ってもらったばかりだった。
(先生も、とうとう、なっちゃったかな。)
私は心の中でつぶやきながら、ふとあることを思い出していた。
・・・『あたしはねぇ、お前が生まれたアカシアの頃になると、決まって鼻風邪を引くんだよ。』
亡き母・シゲ子がよく言っていた、そのことである。
シゲ子が言う『アカシア』とは、4月から5月にかけて、白い花が垂れ下がって咲く、フジによく似たもので、多くの人がそう呼んでいると私も思っていたが、正式な植物名は『ニセアカシア』というそうだ。
それは、さておき。
『そうなったのは、お前を産んでからだったねぇ。』
シゲ子は、5月生まれの私に向かって、何となく恩着せがましい笑みを浮かべながら言ったものだった。
(お前を産んでから)というシゲ子の記憶は、かなり疑わしいが、確かに私の誕生日近くになると、彼女には、その症状が現れ、風邪薬などを飲んで凌(しの)いでいた姿を思い出す。
その後、いつの間にかシゲ子の症状は『花粉症』という呼び名に変わっていたが、A先生のそれは果たしてどうなるのだろうか。
『鼻風邪』のフレーズに、亡き母の思い出が蘇った3月の月次決算だった。
このコラムが印刷される頃、『ニセアカシア』の白い花が満開となる。