祖母に手を引かれて半田んちに着いた私は、おもちゃの刀を腰に差し、意気揚々と庭に下り立つと、玄関の引き戸を開け、自慢の刀を抜き払った。
いつものようにカッコよく構えを決めたが、その瞬間、私の心に不安がよぎった。
半田んちの建物は、いわゆる農家造りである。
その玄関は広く、ひんやりとしていた。
足元は土を固めた本物の土間で、その奥には薄暗い台所が見えている。
左に目をやると広い畳の部屋が続いていて、はるか先にある床の間には、でっぷりとした体格で頭の禿げた男の絵が架かっていて、大きな両目はギョロリとこちらを睨んでいた。
あとで聞くと、この絵は『達磨大師』だと分かったが、これらの環境は3歳の幼児には手強(てごわ)かった。
私は振り上げた刀を放り投げ、「おうちかえるぅ~」と、泣き出したそうである。
いくらなだめても首を横に振るばかりなので、祖母は仕方なく私の手を引き、国道17号を南下するバスに乗ったそうである。
この件(くだり)が伯母の目には余程可笑しく映ったようで、60年近くが経った今も、彼女は楽しそうに、その光景を話して聞かせる。
無口な伯父は、その隣でいつもニコニコと笑っていた。
私が生まれた時、私の父親が亡くなった時、私が結婚した時も、2人は親身になって助けてくれ、そして力になってくれた。
そして、それらは皆、伯父の意思によるものだったのである。
ちなみにダイキョーが毎年正月に開催する、もちつき大会で使った杵と臼は伯父から引き継いだものである。
私にとっての大恩人なのだが、恩着せがましい言葉は一切なしの男前である。
葬儀が行われた5月7日は快晴だった。
『半田のおじちゃん』は、初夏の清々しい風に乗って旅立っていった。